私の実家である藤井家は、祖父の代より、この飾磨の地で紳士服のオーダーメイド店を営んでおりました。
昭和14年 祖父が姫路市東駅前町で紳士服オーダーメイドスーツ店を創業。その後、間もなく第二次世界大戦が勃発、戦争中の経営閉鎖・徴兵と昭和20年の姫路大空襲の被害により店舗・住居が焼失。終戦後は飾磨の祖母の実家に引っ越すも、洋服を作る生地もなく、下駄や農産物・水産物を売って生計を立てたそうです。残酷な戦争の終了後、全てが打ち砕かれた日本。 戦後の混乱の中、これまでの職業身分への復帰に対する希望など誰しも感じられなかったであろう時勢。それでも、紳士服のオーダーメイド店への夢を諦めきれなかった祖父。導かれるように飾磨の空き家を購入したそうです。その信念はやがて再起業へと繋がっていきます。当初は、名古屋まで生地を仕入れに行き、洋服屋に生地を売る卸業をしながら、紳士服店の事業を立て直したそうです。
父は、大学卒業後、23歳から祖父と一緒に紳士服店で働き始めます。戦争を体験した自分の父親から教えられる資産の重要性は、とてもリアルなものでアパートの運営を学んでいく大きなきっかけとなったそうです。そして、地域の皆様の心に寄り添う経営姿勢はより良い信頼関係を築く基盤となりました。お陰さまで、皆様の信頼も厚く、地域のご意見番として頼って頂ける存在となっています。
幼少の頃より、そのような父の姿を見て育った私は、あたりまえのように不動産の仕事に興味を持ち始めました。そして、姫路市内の不動産会社に就職。10年の勤務を経てこの度、縁ある飾磨の地で不動産会社を開業する運びとなりました。
昭和14年 祖父が姫路市東駅前町で紳士服オーダーメイドスーツ店を創業。その後、間もなく第二次世界大戦が勃発、戦争中の経営閉鎖・徴兵と昭和20年の姫路大空襲の被害により店舗・住居が焼失。終戦後は飾磨の祖母の実家に引っ越すも、洋服を作る生地もなく、下駄や農産物・水産物を売って生計を立てたそうです。残酷な戦争の終了後、全てが打ち砕かれた日本。 戦後の混乱の中、これまでの職業身分への復帰に対する希望など誰しも感じられなかったであろう時勢。それでも、紳士服のオーダーメイド店への夢を諦めきれなかった祖父。導かれるように飾磨の空き家を購入したそうです。その信念はやがて再起業へと繋がっていきます。当初は、名古屋まで生地を仕入れに行き、洋服屋に生地を売る卸業をしながら、紳士服店の事業を立て直したそうです。
父は、大学卒業後、23歳から祖父と一緒に紳士服店で働き始めます。戦争を体験した自分の父親から教えられる資産の重要性は、とてもリアルなものでアパートの運営を学んでいく大きなきっかけとなったそうです。そして、地域の皆様の心に寄り添う経営姿勢はより良い信頼関係を築く基盤となりました。お陰さまで、皆様の信頼も厚く、地域のご意見番として頼って頂ける存在となっています。
幼少の頃より、そのような父の姿を見て育った私は、あたりまえのように不動産の仕事に興味を持ち始めました。そして、姫路市内の不動産会社に就職。10年の勤務を経てこの度、縁ある飾磨の地で不動産会社を開業する運びとなりました。